sahalin 发表于 2012-7-10 08:58:05

満洲語における対格主語

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満洲語における対格主語
5 早田輝洋
キーワード:満洲語,対格主語,従属節,副文
10
1. はじめに
間接引用に関わらない非希求的自動詞に終る従属節subordinate clause
(副文・副文章Nebensatz とも)中の対格主語――本稿では時に「狭義の対
格主語」と呼ぶ――は,蒙古語では普通に用いられており,蒙古語文典に
15 も一般的に記述されている。しかし満洲語の狭義の対格主語については,
通常の満洲語文典・入門書にほとんど記述が見られない。筆者の気付いた
所では僅かに上原(1960)が「例外的」として一例,津曲(2002)が「間接引
用にかかわらない場合も見られる」として,上原の挙げたのと同じ文に多
少前後を附して挙げているだけである。確かに頻繁に見られるものではな
20 いにしても,筆者の印象としては例外的とも思われない。真に「例外的」
であるか否かについては出現度数を明らかにしなければならないが,今そ
の調査の余裕はない。
まず上記上原と津曲の説明を見,ついで『滿文原檔』と『満文三国志』
に見られる,manggi に終る従属節中の狭義の対格主語の例を示したい。
25
2. 従来の記述
上述のように満洲語の対格主語に関する記述のうち,間接引用に関わら
ない平叙文の対格主語に触れている上原(1960)と津曲(2002)の記述を挙げ
る。上原は『満洲実録』の満洲語の記述であり,その例文はすべて『満洲
30 実録』からのものである。その出現位置表示,例えば(Ⅳ, 190-102)は,巻
Ⅳ,影印本190 頁,今西(1938)102 頁【今西(1992)では頁の上部に附され
た数字】を表している。(1)は「Ⅱ 格助詞/ 1. 主格/ b) be」の文である。
(1) 上原(1960: 430-431)
35 副文章【従属節】中の主格は,体言の零記号的表現か,またはi
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【属格標識】で表されるのが普通であるが,時にそれがbe【対
格標識】で表されることがある。
tere gisun be mujangga seme hendufi (Ⅳ, 190-102)
5 その言葉はもっともだと言って
tere gisun はhendufi の目的語としてbe をとっているのでなく
て,それはmujangga の主語であって,hendufi はtere gisun be
mujangga 全体を承けるのである。
10 この主格を表わすbe とi とは,如何に異なるであろうか。副
文章【従属節】中に限って用いられることは同様であるが,be
は副文章でも更にそれが叙述文【命令文・希求文でない】中の
直接話法の部分【むしろseme《と》による間接引用文】の主語
に限られるのである。i はこれに反して,副文章中という制約
15 以外には何もない【実は連体形終りという制約がある】。その点
be は更に制約がある訳である。従ってbe はalambi【告げる】,
donjimbi【聞く】, gūnimbi【思う】, hendumbi【(ものを,文句
を)言う】, sembi【という,と思う,とする】等の語で結ばれ
る文の中に現われるのが普通である。
20 darhan hiya be akū oho seme donjifi, (Ⅶ, 177-307)
達爾漢轄が死んだと聞いて
taiji be isinjimbi seme alanjiha manggi, (Ⅷ, 124-342)
台吉が到着すると告げて来たので
25 musei cooha be geren sembi, (Ⅴ, 162-200)
吾々の兵が多いという
ere cooha be geren seme ume gūnire, (Ⅲ, 86-96)
この兵が多いと思うな
30 このbe は直接話法的表現【むしろ間接引用文】の中にしか用
いられていないが,逆に直接話法中の主格なら必ず用いられる
という訳ではなく,その点ではi と全く同様で,全八巻中僅か
に31 例があるに過ぎない。他に代名詞の対格形で主格を示すも
のが12 例ある。ただ次の1 例だけが普通の副文章中に用いられ
35 ていて,例外的に存在する。【下線早田】
tere elcin be isinaha manggi, (Ⅵ, 108-240)
その使が到着した後
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上の最後の例の挙げ方は不十分である。これでは従属節の主語が主節の
主語と同一のものか否かが分らない。
次に津曲(2002:87-88)を挙げる。これは「第13 講複文の主語/ 1. 従属
節の主語/ (2)対格主語」から引いた。
5 (2) これには多くの場合,いわゆる間接引用節がかかわっている。
【中略】特に引用節の述語動詞が希求法(-φ【命令形】, -ki, -kini,
rahū など)の場合や,主語が代名詞の場合,対格をとることが多
いようである。
10
geren hafasa simbe sain seme alaha bihe.
多くの大臣らはおまえを良いと告げていた。
(久保1981【「満洲語文語の主語がとる助詞i 及びbe につい
て」『九大言語学研究室報告』2】: 49)
15 taidzu genggiyen han, darhan hiya be akū oho seme donjifi
太祖英明汗はダルハンヒヤ(人名)が亡くなったと聞いて
(今西1938:307【『滿和對譯滿洲實録』】)
20 tubade genehe manggi tere gucu be hacihiyame jio se.
そこに行ったらその仲間に急いで来いと言え
(T Ⅰ【津曲敏郎1977『清語老乞大』】242)
musei cooha be julesi genekini seme uttu gūnifi
25 我が軍が前進するようにとこう思って
(Y【山本謙吾1955「滿洲語文語形態論」『世界言語概説(下)』】522)
ただし次のように,間接引用にかかわらない場合も見られる。
【下線早田】
30
cahar i lindan han tere elcin be isinaha manggi,
チャハル(国名)の林丹汗(人名)はその使いが到着したのち,
manju gurun i genggiyen han i elcin be geli unggirakū …
満洲国の英明汗の使いをまた返さず
35 (今西1938【『滿和對譯滿洲實録』】: 240)
上に見るように,上原も津曲もそれぞれの最後の例が同一の例文であるが,
これが筆者の求める狭義の対格主語――間接引用に関わらない非希求的自
動詞節の対格主語――である。使役文・命令希求文・seme《と》引用文
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中の「意味上の」主語が対格を取っている例は多くの入門書・文法書にも
挙げられている。
従来の記述で気になるのは資料の問題である。上原・津曲の用いた『満
洲実録』は17 世紀初期の歴史記述であるが,その文は17 世紀初期の文を
5 元にして最終編纂時18 世紀後期乾隆時代(まで)に多数の書換を加えた
ものであり,結果として一種の混淆言語文になっている。17 世紀初期に
はあれほど一般的だったng に続く属格標識-i も皆無ですべてni になっ
ており,数詞《十一》《二十一》《三十一》の《一》もnemu は皆無,emu
ばかりである。これを言語研究の資料として用いるには余程慎重でなけれ
10 ばならない。
3. 『滿文原檔』『満文三国志』における狭義の対格主語
上述のように既存の記述には狭義の対格主語の例が極端に少なく,上原
も津曲も『満洲実録』の同一の例文一つしか挙げられない以上,ややもす
15 れば書き間違い或いは他言語話者の文かとも疑われかねない。実際にはそ
うでなく,『滿文原檔』のような古い時代の資料にも,入関以後順治期の
『満文三国志』にも見られるものであることを示したいと思う。
3.1. 資料について
20 『滿文原檔』全10 冊は,「清初17 世紀前半に書写された最も古い檔冊
で,殆ど満洲文であるが,一部モンゴル文の個所もある」(神田1983:180)
という全40 冊の檔冊を,1969 年台北・故宮博物院で影印出版した『旧満
洲檔』であるが,その後の技術によって一層原貌を再現すべく2005 年に
名も改めて出版したものである。多くは無圏点満洲文であるが,無圏点有
25 圏点混淆文もかなり含まれている。この40 冊の檔冊のほとんどを乾隆期
に無圏点満洲文と有圏点満洲文に書き改めたものを一般に『満文老檔』と
呼んでいる。『満文老檔』は,『満洲実録』と同様に,文字ばかりでなく言
語的にも相当に書き改めてあるゆえ,共時的言語研究資料として利用する
には難しい所がある。しかし,その改め方は『満洲実録』と同じではない。
30 『満文老檔』でも数詞《一》を表すnemu は皆無であるが,ng に続く属格
標識の-i は『満洲実録』と違ってかなり見出される。満文老檔研究会訳注
『満文老檔』全7 冊(東洋文庫,1955-63)は有圏点満文の『満文老檔』
をMöllendorff 式でローマ字転写し,逐語訳と意訳を施し,注と人名・地
名索引をつけてある。《内閣藏本滿文老档》編輯委員会編譯(2009)『内閣
35 藏本滿文老档』(遼寧民族出版社)は,内閣藏本有圏点滿文老档の影印・
1 筆者の方式による転写ローマ字をMöllendorff 式にするには大略,’ をʽ にし,
-i(とi)をi にし,x とX をh にし,q(とk)をk にし,G(とg)をg にし,ü をū
にし,U(とo)をo にし,dzY をdz にし,tsY をts にし,tsY 以外のts をtsʽ にし,tsY
以外のsY をsy にし,c;i をcʽy にし,j;i をjy にし,dz 以外のz をž にすればよ
い,と言える。
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そのMöllendorff 式ローマ字転写文・従来の誤りを正したという漢訳文の
三つを中心として,若干の満文地人名の音訳索引を附したものである。
Möllendorff 式の転写方式は有圏点満洲字の転写に便利ではあるが『御
製清文鑑』の満洲文見出しさえ完全には転写できない所がある。子音字の
5 調音位置の区別(例えば,k とq, g とG[ɢ], x とX[χ]の区別)を無視した
転写方式だからである。無圏点満洲文には,k とg とx の区別はなく,q
とG とX の区別もない,しかし前者(k g x)と後者(q G X)との区別はあ
る。Möllendorff 式転写を無圏点満洲文に適用するのは不適当であるばか
りでなく,満洲語の音韻研究のためにも望ましくないものと考える。
10 本稿におけるローマ字転写は,暫定的であるが筆者の方式(早田2009,
2011)1 によることにする。
以下の実例では,このローマ字転写による『滿文原檔』の文の次に,乾
隆期重鈔の有圏点字『満文老檔』の満洲文を,これはMöllendorff 式転写
の斜体ローマ字で示す。
15
『満文三国志』は,順治7(1650)年の序を持つ有圏点満洲文で表記され
たものである。これについては早田(2008)を参照されたい。後代の有圏点
満洲語資料と違い,漢字は一字も用いられていない。本文・本文の割注・
人名表はもとより柱の書名・巻名・丁数に到るまで満洲文字ばかりで表記
20 されている。本稿ではこの有圏点満洲文も筆者の転写方式で表記する。『満
文三国志』の翻訳底本は,嘉靖本『三國志通俗演義』(に類するもの)と
考えられている。この漢文原文を併せ載せる。
『満文三国志』に見られる狭義の対格主語をすべて確認したいのである
が,今とりあえずmanggi《(~した)後》で終る従属節についてのみ調べ
25 た。『滿文原檔』『満文三国志』とも用例抽出には木村(1998-2011)を用い
た。
3.2. 『滿文原檔』の実例
出現位置の表記,例えば10-392-8 は第十冊392 頁8 行目を表す。邦訳
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文は殆ど満文老檔研究会訳注に従うが,表記は現代表記に改めた。満文老
檔研究会訳注本中の位置,例えばⅥ-1228 は第Ⅵ冊1228 頁を表す。
(3) suwe mafuta be isinaXa manggi, coUXa dendefi wasiXün songqo faitame
5 汝等はMafuta が到着すれば, 兵を分けて西方に探索し,
šuyan de isitala genefi amasi mederi bitume songqo faitame jin jiyang de
岫巌に至るまで行って,引返して海沿いに探索して鎭江で
acanju. 10-392-8
合流せよ。
10 suwe mafuta be isinaha manggi, cooha dendefi wasihūn songko faitame
sio yan de isitala genefi, amasi mederi bitume songko faitame jeng giyang de
acanju, Ⅵ-1238
15 (4) simbe bedereme jixe manggi gebu buki sexe. 10-277-9
汝が帰還した後に称号を与えようと思う。
simbe bedereme jihe manggi, gebu buki sehe. Ⅵ-1134
20 (5) abai babotai süwani kenake coUqa ba ningkuta ta isinjiqa mangki. qajira
汝等Abai, Babutai の出征した兵がNingguta に到着した後,連れて来る
niyalmaba asarama isibora taisolama coUqa ba süwani baya qajima jiU. 5-35-2
者を護送して到らせよう。それに相応した兵を汝等自身で率いて来い。
25 abai, babutai suweni genehe cooha be ningguta de isinjiha manggi, gajire
niyalma be asarame isibure, teisuleme cooha be suweni beye gajime jio,
Ⅲ-986
(6) niyaqoraqa baisa ambasa keran kemo iliqa, taraji totto keran ba
30 跪いた諸王諸大臣衆人皆が立った。それから,そのように皆が
iliqa mangki, qan take sorinji ilibi jamonji tüjibi, abqa ta
立つと, Han は坐していた玉座から立ち,役所を出て天に對して
ilangkeli kengkilake, 1-142a1
三度叩頭した。
35 niyakūraha beise ambasa geren gemu iliha, tereci tuttu geren *ba
iliha manggi, han tehe soorin ci ilifi yamun ci tucifi, abka de
ilanggeri hengkilehe, Ⅰ-68
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(6)の有圏点文の1 行目の*ba は影印本でも附点が見えない。満文老檔
研究会の逐語訳では「處」としており,《内閣藏本滿文老档》編輯委員会
編譯(2009)の訳文でも「贊畢,諸貝勒大臣起,継而各處之人起后,」(漢文
訳文15 頁)のように「各處之人」と訳している。しかしこの無圏点満洲
5 語は対格主語のように思われる。geren ba でgeren bai niyalma の意に使わ
れるのだろうか。乾隆期の満洲人が有圏点重鈔の際にこれを名詞ba《處》
と解してba としたのか,対格主語と解してbe としながらも附点無しで書
いた或は附点を書き落したのか,それは分らない。満文老檔研究会は直訳
で前者の解釈を取りながらも意訳としては「跪いた諸王諸大臣衆人が皆立
10 つと,それからHan は坐してゐた玉座から立ち,役所を出て天に對して
三度叩頭した。」のように問題の所,(6)の下線の部分,を省いている。こ
れは賢明な処置なのかも知れない。(6)の訳は筆者の直訳である。
(7) qan ta ilangkeli kengkilabi qan ba boU ta tosiqa mangki kiU ta tabi
15 Han に三度叩頭して,Han が家に入つた後,轎に乗って
kenake, 2-381-6
去つた。
han de ilanggeri hengkilefi, han ★ boode dosika manggi, kiyoo de tefi
20 genehe.
ここでも乾隆期の満洲人は対格主語に抵抗を感じたのであろうか,『満文
老檔』ではbe を落している(★の所)。満文老檔研究会の訳文はこのbe
のない,不定格名詞のhan を《Han が》と訳しているのである。
25
(8) taraba jike mangki. si fojan. qorjan baqsi. longsi. ning sanjan ba üngkike.
彼が来たので,石副将,Kūrcan Baksi, Lungsi, 甯參將を遣わした。
7-505-10.
30 tere be jihe manggi, ši fujiyang, kūrcan baksi, lungsi, ning tsanjiyang be
unggihe, Ⅴ-582
(9) bi moU sümingkuwan ba bojake mangki. keng Canson -i emki
我は毛總兵官が死んだ後, 耿千總と共に
35 daqaki sara arqa be kebteke. 6-223-4
投降しようと謀ったことがある。
bi mao dzung bing guwan be bucehe manggi, geng ciyandzung ni emgi
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dahaki sere arga be hebdehe, Ⅳ-170
(10) iUwan tüy -e saqta qan be aqo oqo mangki. bisira fonta sain müjilan -i
袁都爺は,老Han が亡くなったので,在世中に好意をもって
5 tümin jüng ba jafabi waqaqo. jai keli ning iUwan -i kejan te bitke üngkike
杜明忠を捕えて殺さず,更にまた寧遠城に書を送ったのは
torongqo sama mimba simiyan te qoUsan dejama taqoraqa. 6-31-1
礼のあることとして,我を瀋陽へ紙錢を焼きに遣わした。
10 yuwan du ye, sakda han be akū oho manggi, bisire fonde sain mujilen -i
du ming jung be jafafi wahakū, jai geli ning yuwan -i hecen de bithe unggihe
doronggo seme mimbe simiyan de hoošan deijime takūraha, Ⅵ-19
3.3. 順治期の『満文三国志』の実例
15 例文の出現位置8-84a1 は,第8 巻84 丁表1 行目を表す。嘉靖本『三國
志通俗演義』もその満洲語訳本も24 巻本である。出現位置は満洲語訳本
中の位置である。
(11) mimbe bucexe manggi. mergen deU si jing-jeU -i weile be alici ombi.
20 吾が死せる後, 賢弟汝は荊州の事を引受ければよい。
吾死之後,賢弟可攝荊州。8-84a1
(12) simbe te tsoUtsoU Gosime ujimbi seme. fe banjiXa jurGan be ongGofi.
汝を今曹操が恩養しているとて,旧日の義を忘れ
25 mende yargiyan mejige alaraqüngge. meni eyun non be joboXoi bucexe
我等に実情を告げざること,我等姉妹が憂死した
manggi. ecike si bayan wesixun ofi banjiki serengge waqaU. 6-11b5
後, 汝は富貴を得て暮さんとするにあらずや。
你今受曹恩養。忘舊日之義。不以實情告我。使我姉妹憂愁身死。
30 叔要自享榮貴。
(13) suwe mini gisun be gemu eje. mimbe aqü oXo manggi.
汝等朕が言を二人(劉永・劉理)とも覚えておけ。朕が死して後
suweni aXün deU ilan niyalma gemu cengxiyang be ama -i gese weile.
35 汝等兄弟三人(劉禪・劉永・劉理)は皆丞相を父の如くに仕えよ。
17-82b2 尓等皆記朕言。朕亡之後。爾兄弟三人皆以父事丞相。
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4. まとめ
狭義の対格主語――使役文の動作主でもなく,命令文・希求文・間接引
用文の意味上の主語でもない対格主語――は筆者の見た内外の満洲語の文
典・研究では,上原(1960)と津曲(2002)が今西(1938)から得た同一の一例
5 のみであった((1)の最後の例と(2)の最後の例)。孤例では心細い。しか
し,筆者が『滿文原檔』と『満文三国志』についてmanggi で終る従属文
だけを探した所,『滿文原檔』からは8 例,『満文三国志』からは3 例の計11
例を得た。満洲語の生きのよい時代には使われていた形式であると言えよ
う。
10 今回はmanggi で終る従属節中の狭義の対格主語を,多少は遺漏もあろ
うが拾い出した。今後まず成すべきことは,当然あらゆる従属節中の狭義
の対格主語を抽出観察することである。
満洲語に積極的な主格標識がない以上,対格主語と比ぶべき形式は不定
格主語(Ø 主語)である。対格主語がそれほど珍しいものでないにしても,
15 やはり不定格主語の方が多く見られることは確かである。不定格主語が無
標であるとすれば,どういう条件が揃えば対格主語が用いられるのか。蒙
古語では「この様な主格を表示する対格語尾は,しかし,主節の主語が従
属節の主語と同一の場合には用いられることがないことに留意しなければ
なるまい」(小沢1997:41)という。満洲語でもそのとおりだと思う。従属
20 節の対格主語は,主節の主格主語(や不定格主語)とは別のものを指す。
これこそが対格主語の中心的機能に他ならないと思われる。さらに,対格
主語の現れる従属節はどのような従属節か,ということも解明しなければ
ならない。manggi で終る従属節はその一つである。
今回のmanggi 従属節という狭い範囲だけでも,17 世紀初期の『滿文原
25 檔』と基本的にその有圏点版である乾隆期重鈔の『満文老檔』で,後者の
方が狭義の対格主語を多少とも避けていることが窺える。manggi 従属節
以外の従属節の事実も確認した上で,『満文金瓶梅』を始めるとする康熙
期の資料等種々の時代の文献も調べて,歴史的変遷の傾向を明らかにすべ
きである。現在生きているシベ語はどうなのか。文語的感覚なしで日常的
30 に使えるのか,シベ語の専門家に教えて頂かねばならない。
参考文献
今西春秋(1938)『滿和對譯滿洲實録』日滿文化協會.
今西春秋(1992)『満和蒙和対訳滿洲實録』刀水書房.
35 上原久(1960)『満文満洲実録の研究』不昧堂.
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小沢重男(1997)『蒙古語文語文法講義』大学書林.
神田信夫(1983)「Ⅶ 清代/ 史籍解説」山根幸夫編『中国史研究入門』下
巻174-216 山川出版社.
津曲敏郎(2002)『満洲語入門20講』大学書林.
5 《内閣藏本滿文老档》編輯委員会編譯(2009)『内閣藏本滿文老档』遼寧
民族出版社.
早田輝洋(2008)「満文三国志について」『狩野直禎先生傘寿記念三国志
論集』357-382 汲古書院.
早田輝洋(2009)「満洲字概説――有圏点満洲字篇――」久保智之、林徹、
10 藤代節編『チュルク諸語における固有と外来に関する総合的調査
研究』119-157.
早田輝洋(2011)「満洲語と満洲文字」寺村政男・福盛貴弘編(2011)『言
語の研究Ⅱ―ユーラシア諸言語からの視座―』語学教育フォーラ
ム24:1-35 大東文化大学語学教育研究所.
15 満文老檔研究会訳注(1955-63)『満文老檔』東洋文庫.
資料(マイクロフィルム,影印本等)
『滿文原檔』
『満文三国志』
20 『満文金瓶梅』
『満文老檔』
『満洲実録』
使用ソフト
25 木村展幸(1998-2011)『KIS 日本語解析システム』KisKwic for Windows,KIS
(株)漢字情報サービス.
Accusativus subjecti in Manchu
Hayata, Teruhiro
The accusative can be used in Mongolian as accusativus subjecti, i.e., as a logical
subject or as a marker of the person acting, by using intransitive verbs in a
subordinate clause. This fact can be found in ordinary grammar books of
Mongolian, but such a use in Manchu has rarely been described in the literature.
Two studies (Uehara (1960), Tsumagari (2002)) of Manchu give one and the same
citation from Manju -i yargiyan kooli, romanized and translated into Japanese by
Imanishi (1938). No other citations of accusativus subjecti in Manchu appear to
have been reported in linguistic studies. The present author of this paper has
searched for that use in subordinate clauses ended with manggi "after", and
obtained eleven instances, with eight from Man Wen Yuan Dang "Original
Manchu Archives", and three from the Manchu version of San Guo Zhi Yan Yi
"Tales of three kingdoms". In these eleven instances, the referent of the accusative
subject in a subordinate clause is always different from that of the nominative (or
indefinite) subject of a main clause. This must be the key function of accusativus
subjecti.
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