シュミットの『蒙独露辞典』(1835)について
シュミットの『蒙独露辞典』(1835)について満永葉子∗
はじめに
シュミットの『蒙独露辞典』の主な特徴としては、1) ヨーロッパで出版された初めての
モンゴル語辞書、2) モンゴル語を見出し語としたものとしては、二番目に古い字母順配列
の辞書、3) 従来の語彙集的な要素の強いものではなく、文法的な特徴を加味した語彙選定
などが挙げられる。発表では、編纂者シュミットの経歴とその業績を簡単に紹介し、本辞
典の意義について検討する。
書誌情報
1. 体裁について
シュミットの編による『蒙独露辞典』(Mongolisch-deutsch-russisches Wörterbuch,
Монгольско-ньмецко-российский словарь)は一巻本で、前書き8 ページと本文613 ペー
ジからなり、三段組みの活字本で、サイズは8.5×10.5 インチ(約21.6cm×26.7cm)である。
モンゴル文字表記のモンゴル語を見出し語として字母順に配し、各語にドイツ語訳とロ
シア語訳を付してある(pp.1-378)。前書きの文章はシュミット自身によるものである。巻
末には、ドイツ語を見出し語とする索引(pp.379-504)と、ロシア語を見出し語とする索引
(pp. 505-612)があり、モンゴル文字の字母表(p.613)も添えられている。
2. 出版状況
初版は1835 年で、サンクトペテルブルクの帝国科学アカデミーとライプツィッヒ
(Leopold Voss)において出版された。1939 年には、北京で《合璧 蒙徳俄語辞典 史蜜徳編》
(民国28 影印版)として、1972 年には、ドイツのオズナブリュック(Osnabrück: Zeller)で
再版された。さらに、1982 年には東京(第一書房)で影印版が出版されている。現在、Google
eBook にてオンライン書籍化されており、無料でダウンロードが可能だ。
シュミットの略歴
∗ 中国語・モンゴル語翻訳者, y_mitsunaga@nifty.com
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イサーク・ヤーコブ・シュミット (Isaak Jakob
Schmidt, Исаак Якоб Шмидт)は、ドイツ系で1779
年にアムステルダムで商人の家庭に生まれた。1795
年のフランス軍によるオランダ占領で、一家は全財
産を失って国外に逃れた。1798 年にはヴォルガ地
方のサレプタへと移住し、キリスト教モラヴィアン
派(注1)の宣教師となった。しかしまた彼は、商人
としての活動も行っていたようである。
1804~1806 年にかけてシュミットは、カルムイ
ク人の遊牧民から借金を集めて回るという仕事に
携わっていたため、カルムイク語とモンゴル語文語を身に付けることができた。彼は、こ
の頃からカルムイク語とモンゴル語の写本の収集を始め、カルムイクの宗教や歴史につい
ても記録を行った。こうして身に付けた知識は、その後のシュミットの研究の基礎になっ
たと思われる。
1807~1812 年にかけては、サラトヴの教会にて活動した。1812 年にはヘレナと結婚し、
教会からモスクワに派遣されたが、フランス軍の進軍により移住を余儀なくされた。当時
モスクワで起こった火事によって、シュミットは自らのカルムイク語写本のコレクション
をすべて失った。
同年、シュミットはペテルブルグに移住し、ロシア聖書教会で活動し、1813 年には聖書
のカルムイク語、モンゴル語訳を本格的に開始した。翻訳したのは創世記の部分訳である。
当時、バイカル湖周辺でドイツのモラヴィアン派の宣教師たちが布教を行っていた時、
ブリアート人の高僧がその宗教に強い関心を示し、バドマとノムトの二人をサンクト・ペ
テルブルクに派遣し、シュミットの監督のもとで聖書の翻訳に当たらせ、印刷を行なわせ
たという。
1929 年には、シュミットは『蒙古源流』(注2)のドイツ語訳を出版し、同年にロシアの
帝国科学アカデミー(現在のロシア科学アカデミー)の再編に伴って、東洋学者として籍を
おくようになる。1831 年には『モンゴル語文法』、1835 年には『蒙独露辞典』を出版し、
さらに1839 年には『ゲセル物語』(注3) を出版する。
その後も彼はドイツ語とロシア語によって数々の本を発表し、やがてヨーロッパのモン
ゴル学及びチベット学の創始者となった。
ヨーロッパにおける東洋学
すでに18 世紀のヨーロッパでは、東洋学の先駆けとなるべき、中国の文献紹介などが行
われていた。しかし、本格的な東洋学研究が行われるようになったのは19 世紀以降だった。
当時、東洋学の拠点となったのは、サンクトペテルブルグの帝国科学アカデミーのアジア
博物館(注4)と、カザン大学である。
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帝国科学アカデミーでは、古代東洋史、文学だけではなく、東洋系の人々をはじめとし、帝
国内のすべての人々を対象とする言語、生活習慣、心理学、伝統の研究が行われた。その
先鞭となったのは、数々の中国語文献をロシア語に訳して紹介した中国学者のビチュリン
で、彼は1828 年には『モンゴルについて』(注5)というモンゴルの歴史書も著している。
1833 年には、帝国科学アカデミーの流れを汲むサンクトペテルブルク大学(ペテルブル
ク大学)(注6)の東洋学部において、ヨーロッパひいては世界で初めてモンゴル語講座が開
設された。
一方、カザン大学にも、カザン第一高校(1769~1855)、カザン大学(1807~1855)、カザ
ン神学アカデミー(1843 ~1920)の三つを拠点として、モンゴル語講座が開設された。
1833 年には、現在のタタルスタン大学に最初のモンゴル語研究科が設置された。これは
世界で最初のモンゴル研究の拠点といってもよい。
同時代のモンゴル語辞典
中国(清朝)では、康熙(1661~1722)・乾隆(1735~1795)年間に『清文鑑』と呼ばれる一
連の対照辞典の編纂事業が行われていた。そのうち、モンゴル語を含むものとしては、最
も古くは康熙帝の勅令により『御制清文鑑』(1708 年)をモンゴル語に翻訳して編纂された
『清文合蒙古鑑』(1717 年)である。その後の80~90 年の間、この『清文鑑』の系統の辞
書は徐々に内容が充実していき、各種の多言語対照辞典が編纂された。
ロシアでは、カメンスキー(注7)が19 世紀初頭に『漢満蒙露羅辞典』を編纂したが、中
国語印刷用の活字がなかったため、出版には至らなかった。当時のフランスやイギリスの
印刷所にも問い合わせたが、中国語用の活字はすでに損耗したものしかなく、印刷には
16,000 個の文字が必要だとの回答を受けたという。
コワレフスキー(1801~1878)(注8)は、シュミットの『蒙独露辞典』の約十年後にあたる
1844 年から1849 年にかけて『蒙露仏辞典』(注9)を出版している。コワレフスキーがモ
ンゴル関係の研究に従事するようになったのは1828 年以降だが、シュミットは彼を自分
の後継者の一人と見なしていたようだ。シュミットの辞書の前書きにも、コワレフスキー
とポポフは将来有望な若きモンゴル語学習者で、自分の成果を引き継いでくれるだろうと
述べられている。
『蒙独露語辞典』の前書きについて
辞書の前書きは、シュミット自身による文章で、ドイツ語とロシア語の対訳形式で書か
れている。主に辞書成立の経緯の簡単な説明、中国の『清文鑑』(Wörterspiegel)に関する
コメント、印刷の体裁について述べられている。
特に『清文鑑』についてのコメントは詳細を極め、1 ページ半に渡っている。ここでい
う『清文鑑』だが、康熙帝(Kanghi)の勅令によって作られた満洲語とモンゴル語の対照辞
典で、後に乾隆帝(Kianlung)の時代に編纂作業が続けられ、語彙数が16,000 語にまで増え
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たと述べられている。つまりシュミットは、単独の辞書についてではなく、一連の『清文
鑑』の系列全体について言及していることがわかる。
シュミットは『清文鑑』の収録語彙の豊富さを評価しているが、彼自身の辞書は『清文
鑑』には収録されていないような、独自に収集した語も数多く含むとしている。
近代的な体裁
1. 字母順配列
モンゴル語を含む辞書の中で字母順配列のものとしては、満洲語を見出し語とするもの
だと清朝の『三合便覧』(1780 年)が世界初である。
ただし、モンゴル文字による字母順配列のものとしては、『蒙古托忒彙集』(1797 年)が最
も古く、それに次いでシュミットの『蒙独露辞典』(1835 年)が二番目に古い。その後、清
朝では『蒙文総彙』(1891 年)や『欽定蒙文彙書』(1891 年)のようなモンゴル語の字母順配
列の辞書が刊行されている。
シュミットの辞書では、モンゴル文字に4 つ存在する円唇母音は2 つだけの見出し語に
まとめ、各語のドイツ語訳の部分につけられた(o)または(u)、(ö)または(ü)という記号によ
って、それぞれどの母音で始まる語かを区別している。また、一部の子音の順番などの細
かな違いはあるが、現在の内モンゴル自治区で出版された辞書類の配列順と共通点が多い。
これらの配列順は、古くは、現存する最古のモンゴル語文法書であるジルケノ・トルタ(オ
クトルゴイ・マーニ)に遡ることができる。
表1. シュミットの辞書の字母配列順と他の辞書の比較
辞書名 字母配列の順番
蒙独露辞典 a, e, i, o/u, O/U, n, b, q/k, G/g, m, l, r, t, d, y, j, c, s, S, w
蒙漢詞典 a, e, i, o, u, O, U, n, b, p, q/k, G/g, m, l, s, t/d, c, j, y, r, w
ジルケノ・トルタ a, e, i, o(u), O(U), n, b, , m, l, r, s, d, t, y, c, j
なお、モンゴル語辞典における見出し語の配列順には、コワレフスキーの『蒙露仏辞典』
や陸軍省編『蒙古語大辞典』(1933 年)などに見られる、もうひとつ別の系統がある。この
配列順は、単純にモンゴル文字とトド文字を比較するわけにはいかないが、『蒙古托忒彙集』
の「トド文字字母表」に見られるものとも共通点が多い。
表2. コワレフスキーの辞書の字母配列順と他の辞書の比較
辞書名 字母配列の順番
蒙露仏辞典 a, e, i, o/u, (O)/U, n, q, G, b, p, s, ch, t/d, l, m, c, j, k/g, r, w
蒙古語大辞典 a, e, i, o/u, (O)/U, n, q, G, b, p/f, s, t/d, l, m, c, j, y, k/g, r, w, H, #, K
蒙古托忒彙集 a, e, i, o, u, O, U, n, x, G, b, p, s, t, d, l, m, c, j, y, k, g, r, ph, f, A, ai, ar, ad, J, D,
ha, G, #, kh, g
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2. 活字とレイアウト
活字には、それ以前に出版された『モンゴル語文法』(1831 年)でもモンゴル語活字が使
われており、字体から判断して同じ活字のようだ。ただし、それ以前にシュミットによっ
て行われた聖書のカルムイク語、モンゴル語訳の印刷段階で、すでに活字が製作されてい
た可能性も考えられる。
同辞典では、モンゴル語の見出し語を縦に配置し、その横にドイツ語とロシア語の訳を
横書きで配置している。シュミット自身も前書きにおいて、モンゴル語の書写方式は縦書
きであるため、モンゴル語の単語が縦になるように版を組むことに留意したと述べている。
これはかなり技術的な難易度の高いもので、当時の植字工の苦労がしのばれる。
3. 索引
巻末には、ドイツ語を見出し語とする索引と、ロシア語を見出し語とする索引がそれぞ
れ付いている。索引にはそれぞれページ番号と段の位置を示すa, b, c の記号がつけられて
いる。a はページの一番左側の段、b は真ん中の段、c は一番右側の段を表す。
多言語対照のモンゴル語辞典としては、巻末に索引がついているものは世界初である。
現在、モンゴル国で出版されている多言語対照辞典で、巻末に索引がついているものは、
おおむねこの番号と記号によって表す方式が採用されている(注10)。
4. モンゴル文字字母表
巻末にはモンゴル文字の一覧表がついており、それぞれの字にはドイツ語読みによるラ
テン文字と、ロシア語読みによるキリル文字が併記されている。さらにその字で始まる見
出し語がどのページのどの段から始まるかを示す番号と記号がついている。
収録語彙について
1. 語彙選択と文法的考慮
シュミットは同辞典の前書きで、清文鑑は文法的な考慮に欠けるとコメントしている。
その理由として、中国語の非合理性と当時の中国でモンゴル語があまり尊重されておらず、
研究が不十分なためと述べている。
表3. 『モンゴル語文法』と『蒙独露辞典』における動詞
『モンゴル語文法』の例 『蒙独露辞典』中の見出し語
文法事項 動詞の例 ab− Og− yab− bol−
未来形 bolqu abqu OgkU yabuqu bolqu
使役態 yabuGulqu abquGulqu OggUgUlkU yabuGulqu bolGaqu
受身態 abtaqu abtaqu OgtekU − −
受身態 − abuGdaqu − − −
多数態 − abcaGaqu − − −
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相互態 abulcaqu − − yabulcaqu −
完成相 − − − yabucaGaqu −
命令形 abtuGai − − − boltuGai
意思形 abuyu − − − boluyu
並列 abcu abcu OgcU − −
仮定 abubasu − − − bolbasu
譲歩 abubacu − − − bolbacu
行為者 abuGci abuGci OggUgci yabuGci −
表3 は、シュミットの『モンゴル語文法』に見られる動詞の用例と、『蒙独露辞典』の見
出し語に含まれる動詞を比較したものである。『モンゴル語文法』にはab−, Og−, yabu−, bol−
といった動詞語幹を持つ語が頻出するため、特にこれら4 つの動詞語幹を持つ語について
『蒙独露辞典』での収録状況と比較してみた。なお、『モンゴル語文法』における説明はド
イツ語だが、ここでは便宜的に、文法事項についての用語はフフバートル氏の分類に従っ
た。
『蒙独露辞典』に収録の動詞には、原形だけでなく派生形もいくつか含まれ、ある程度
文法を意識して編纂されたことが見て取れる。ただし、動詞によって派生形の収録のしか
たはまちまちで、完全に整合性がとれているわけではない。むしろ、現代の言語学的な視
点で見れば、個々の派生形を逐一見出し語として挙げるというのは、さほど合理的なやり
方とは言えない。
表4. 『蒙独露辞典』に収録された格語尾
格 モンゴル語文語 『蒙独露辞典』中の例
属格 yin, un/Un, u/U yin
与位格 dur, tur dur, tur
対格 i, yi ―
奪格 ece ece
造格 bar/ber, iyar/iyer bar/ber, iyar/iyer
共同格 luGa, lUge luGa
方向格 uruGu uruGu
表4 では、『蒙独露辞典』に見出し語として収録されている語のうち格語尾をまとめ、モ
ンゴル語文語の文法と比較した。一通りは収録されているが、完璧なものではない。
2. その他の特徴的な語彙
モンゴル語は、空間を表す語彙が豊富だという特徴を持つ。特に、三次元空間を表す際
に、山を基準として表される語がいくつか存在する。シュミットの辞書にはこうした語が
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網羅的に収録されている。
表5 は、山に対する位置関係を表す語のうち、『蒙独露辞典』に収録されたものをまとめ
たものである。このうち、aru, ObUr などは、単独でも座標軸の中心に対する位置関係を表
すために用いられる語で、orgil, qamar, qormai, qosiGun などは三次元物体のうちに占める部
位を表す語、kOndUl, murui などは幾何学的な形状を表す語である。
表5. 『蒙独露辞典』に収録された山を基準とした語
『蒙独露辞典』の収録語 意味
aGula−yin aru 山の北側
aGula−yin orgil 山の頂上
aGula−yin ObUr 山の南側
aGula−yin bel 山の中腹
aGula−yin qabar (qamar) 岬
aGula−yin qabirGan 山の頑丈な部分
aGula−yin kir_e 山の尾根
aGula−yin qormai 山の麓
aGula−yin qosiGun 岬
aGula−yin kOmUkei 山の洞窟
aGula−yin kOndUl 山の平坦な部分
aGula−yin murui 山のカーブ
aGula−yin degdUrke 山のスロープ
aGula−yin sili 山の尾根の頂上
こうした語は、実体験に即して習得されるものであるため、シュミットが若い頃にカル
ムイク人達の間で生活を共にしたときの知識が活かされているものと推測される。モンゴ
ル語研究がほとんど無に近かった当時のヨーロッパで、シュミットの辞書がいかにして生
まれたかを垣間見ることができるだろう。
まとめ
シュミットの辞書は、現代的な視点からみれば不十分な点や不合理な点も少なくないが、
その体裁、語彙選定など、多くの点で当時としては非常に画期的なものだったと言えよう。
ヨーロッパにおける東洋学の黎明期において、モンゴル語研究のための足掛かりを作った
という意味でも、同辞書の持つ意義は大きい。
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注
(1) ドイツのHerrnhut で生まれたプロテスタントの一派で、設立者の多くがボヘミアの
モラビア地方(現チェコ共和国)出身だったことからこう呼ぶようになった。
(2) Schmidt, I. J., Geschichte der Ost-Mongolen und ihres Fürstenhauses, verfasst von
Ssanang Ssetsen Chungtaidschi der Ordus; aus dem Mongolischen übersetzt und MIT
dem Originaltexte, nebst Anmerkungen, das andern Erläuterungen und Citaten aus
unedirten Originalwerken herausgegeben, St. Petersburg / Leipzig 1829.
(3) Schmidt, I. J., Die Thaten Bogda Gesser Chan's, des Vertilgers der Wurzel der zehn
Übel in den zehn Gegenden: eine ostasiatische Heldensage, St. Petersburg / Leipzig,
1839.
(4) 1818 年に創設され、ロシア革命後の1930 年にはソ連科学アカデミー東洋学研究所として
サンクトペテルブルクに設立された。現在ではロシア科学アカデミー東洋学研究所として
活動を行っている。
(5) Н.Я.Бичурин, Записки о Монголии, С. Петербург, 1828.
(6) 同大学は、1724 年に帝国科学アカデミーと同時に設立され、1819 年に独立の大学として
分離した。
(7) カメンスキーは1794~1807 年に布教のため中国に派遣され、その間に中国語と満洲語
を習得した。現地でも、ロシアに戻ってからも中国語書籍、満洲語書籍の翻訳を行っ
ていた。
(8) ウィルナ大学で言語学および文献学を学んだ卓越した研究者だったが、ロシアの権威者に
よって同大学を追われた。カザン大学で東洋の諸言語を学び、のちに教授となった。
(9) Kowalevski, J. E., Dictionnaire Mongol-Russe-Français, Kazan, 1844-1849.
(10) 例として、以下の辞書が挙げられる。
Gombobaatar, S., A Dictionary of Vertebrate Animals of Mongolia, Ulaanbaatar, 2009.
Гантөмөр, Ш., Машин йлдвэрлэлийн зурагт толь (Англи, герман, франц, испани, орос,
монгол), "Урлах эрдэм" хэвлэлийн компани, 2009.
Нарангэрэл, С., Англи-Монгол-Орос Хууль зйн толь, Улаанбаатар, 1994.
Цэцэгдулам, У., Авто машины япон-монгол, монгол-япон зурагт толь, ШУТИС, 2001.
参考文献
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Kowalevski, J. E., Dictionnaire Mongol-Russe-Français, Kazan, 1844-1849. (影印本:柯瓦莢
夫斯基編, 《蒙俄法文合璧 蒙語大辞典》, 天津, 1941 /台北SMC Publishing INC, 1993)
Lehne, Georg, Der Druck chinesischer Zeichen in Europa: Entwicklungen im 19. Jahrhundert,
Wiesbaden: Harrassowitz, 2004, p.236.
Poppe, Nicholas, Introduction to Altaic Linguistics. Wiesbaden: Harrassowitz, 1965, p.
80.
9
Schmidt, I. J., Mongolisch-deutsch-russisches Wörterbuch, nebst einem deutschen und
einem russischen Wortregister (Монгольско-немецко-российский словарь), St.
Petersburg / Leipzig, 1835. (影印本:第一書房, 1982)
Schmidt, I. J., Grammatik der Mongolischen Sprache, St. Petersburg, 1831, pp.55-82
Walravens, Hartmut, Isaak Jacob Schmidt (1779-1847) - Leben und Werk des Pioniers der
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Walravens, Hartmut, “Der Brücherkatalog von Kamenskij und Lipovcov”, Zeitschrift der
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フフバートル, 『モンゴル語基礎文法』, インターブックス, 1993.
陸軍省編,『蒙古語大辞典』, 偕行社編纂部, 1933. (再版:国書刊行会, 1971)
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付録1 シュミットの『蒙独露辞典』の本文ページと巻末の字母表
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