仏典翻訳に見られる辞書類使用の実態について
仏典翻訳に見られる辞書類使用の実態について樋口 康一*
0. はじめに
本発表は、モンゴル語仏典の翻訳に際して、『翻訳名義大集』を初めとする対訳用語集がど
のように使用されたのか、その実態解明の端緒を提供する試みである。対象とするのはあく
までも対訳用語集であり、辞書とは称せないのであるが、主催者のご好意に甘えて、本ワー
クショップへの参加がかなったのは幸いである
しかしながら、辞書の範疇がいかなるものか、という問題以前に、標題の冒頭にある「仏
典」が問題になる。というのは、このワークショップの参加者各位の多くは、仏典に関する
予備知識があまりないと予想できるからである。
WS の本旨である活発な議論を展開するためには、それを共有しておく必要があろう。そ
こで、本稿においてはモンゴル語仏典のもつ資料的意義と仏典翻訳に関わる諸事情を解説す
ることで、本発表の理解を少しでも容易ならしめ、活発な議論展開のための材料を提供した
いと考える。
1.モンゴル語史概観とモンゴル語仏典の資料的意義
モンゴル語の歴史は,N. N. Poppe の所説によれば、13 世紀までの原始モンゴル語
(Ancient Mongolian)、以後16 世紀末までの中期モンゴル語(Middle Mongolian)、
およびそれ以降の近代モンゴル語(Modern Mongolian)の3段階に区分される(1)。中期
モンゴル語は文献以前の段階の原始モンゴル語と現在の諸方言に代表される近代モンゴ
ル語のいわば中間項であり、モンゴル語史の上で重要な位置づけを占める。資料で遡り
得る最古のモンゴル語が中期モンゴル語にほかならない。
その漢字による音写資料としては、『元朝秘史』や『華夷訳語』等がある。また、『ム
カディマットの辞書』等のアラビア文字音写資料、14 世紀にフビライが公布したパクパ
文字で記された資料等もある。いずれも良質な資料で、実証的な研究も着実に進められ
ている。
* 日本愛媛大学法文学部, higuchi@LL.ehime-u.ac.jp
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モンゴル語には口語とは別に書写語として用いられる文語がある。ウイグル文字を改
良したモンゴル文字で綴られ、その歴史はやはり13 世紀に遡る。モンゴル文語の歴史は、
同じくPoppe の所説によれば、17 世紀初頭までの先古典期モンゴル文語(Pre-classical
Written Mongolian)、以後20 世紀初頭までの古典期モンゴル文語(Classical Written
Mongolian)、そしてそれ以降の近代モンゴル文語(Modern Written Mongolian)の3
段階に区分される(2)。
古典期モンゴル文語は、チベット仏教の第二次伝播と印刷術の普及にともない、書写
語としての規範が確立された以降の文語である。様々な面で口語との乖離が著しく、モ
ンゴル語史再構の資料としては意義が限定されたものとなる。一方、それ以前の先古典
期文語は、文字が導入されて以後、文語としての規範が確立されるまでの段階の書写語
である。13 世紀のモンゴル帝国の勃興期当初、自らの言語を表記するのにふさわしくウ
イグル文字を改良したのがモンゴル文字である。この文字によって表記されるのが先古
典期文語である。そこには、文章語としては混乱した面、すなわち口語の実相を反映し
た面が現れている。裏返せば、古典期文語に比べてその資料的価値は高いと考えてよい。
先古典期文語資料としては、一連の漢語との対訳碑文やトゥルファン等の各地から出
土した文書断片等が著名である。いずれも良質で、上述の中期モンゴル語資料を補い得
るものであるが、量的には十分とは言えない。この資料的空白を埋め得る好個の素材と
して位置づけられるのがモンゴル語仏典なのである。
現存するモンゴル語仏典の大半は、版本・写本の別はあれ、17 世紀以降に製作された
ものであり、さきの分類に従うなら、近代モンゴル語時代の産物である。ところが、そ
の中には、その言語特徴を見る限り、明らかにより以前の段階のモンゴル語、すなわち
中期モンゴル語の時代に翻訳されたとしか考えられないものが多数見出されている。
2.その具体例-モンゴル語訳『宝網経』から
以下に掲げるのは、その一例、『宝網経』の一節である。これを閲することにより、仏
典の資料的価値を実感できるとともに、次節で述べるその特殊性も理解していただける
にちがいない。の現存するモンゴル語訳の製作年代は18 世紀を遡らない。だが、内在的
な証拠に照らして、その原典は14 世紀に成立したと見なし得る。その原翻訳に比較的忠
実な異本(=A)のほかに、17 世紀に製作されたその改訂版に相当する異本 ( =B)、リグ
ダン・ハーン時代に活躍した実在の僧侶Ünükü bilig-tü tai guusi が再訂した旨の奥書を
もちモンゴル大蔵経に収められている異本(=C)、の都合3点の異本がある(3)。200 近い
詩頌と散文の部分から構成されているこの仏典から詩頌をひとつ引用する。参考のため
漢訳の平行する個所を掲げる(4)
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(170-a)
A tere čag-tur togalasi ügei
B tere čag-tur togalasi ügei
C tere čag-tur togalasi ügei
(b)
A költi amitan qamug-ača irebesü :
B költi amitan qamug-ača irebesü :
C költi amitan qamug-ača irebesü :
(c)
A tedeger togolugsan burqan :
B tedeger togolugsan burqan :
C tedeger togolugsan burqan :
(d)
A burqan-u tengsel ügei bilge bilig-tür ǰokiyabai ::
B tengsel ügei burqan-u belge bilig-tür ǰokiyabai ::
C tengsel ügei burqan-u belge bilig-tür ǰokiyabai ::
「そのとき無数の/億兆の衆生が一切から参集すると/
かれらは正等覚である仏を/仏の比類ない般若智において荘厳した。」
Chin.
無限不可量 億数人民会 仏則建立之 尊慧人中上
個々の形式の解釈は当面措くとして、ABC を比較すれば、行文にはほとんど違いがない。
実は、BC はA が代表する中期モンゴル語時代の翻訳を、近代語の時代になって多少の改訂
-後述するように、意外なほど杜撰である-を、加えた上で、開版・書写したものに他なら
ない。したがって、一定の文献学的処理さえ確かであれば、モンゴル語仏典は中期語資料と
して活用可能なのである。
その事実を踏まえたうえで、最終行のbelge(~bilge) bilig-tür にご注目いただきたい。
belge(~bilge) bilig とはサンスクリットのprajñāpāramitā(般若智すなわり最高の悟
り)に相当する形式である。ウイグル語bilge bilig に由来するが、これを忠実に再現し
ているbilge bilig は元朝時代の仏典にしか登場しない。よりモンゴル語化したbelge bilig
が、既に元朝時代にもこれと平行して使用されていたが、17 世紀以降はウイグル的な
bilge bilig を完全に駆逐してしまう。事実、A では4例使用されているbilge bilig が、
BC ではすべてbelge bilig に改められている。ここに掲げたものはその1 例であるが、
4
この形式は、『宝網経』モンゴル語訳の資料的価値を雄弁に物語っている(5)。
それにしても、最後に掲げた四行全体の直訳は、率直に言って、一読しても理解しづ
らいに違いない。ここに仏典モンゴル語の特殊性が集約されている。
第2 行のqamug-ača「一切から」はチベット語の直訳である。こなれたかたちで翻訳
すると「四方八方から」となる。第3 行のtogolugsan も同様で「(欲望に)打ち勝った・
克服した」と直訳できるが、これは仏の異名で、漢訳の「正等覚」に相当する。
第4 行のbelge(~bilge) bilig には与・位格語尾が接続している。だから、忠実には「般
若智において」と訳すべきところである。ところが、それでは意味が判然としない。こ
れはチベット語の直訳であり、しかも、それ自体は文脈に応じて多義的であるチベット
語形式を、文脈を無視して強引にひとつのモンゴル語形式で処理した悪訳の典型である。
「比類のない般若智を有しているということで仏(像)を建立した」とでも訳するのが
順当であろう。
3.モンゴル語仏典の特殊性とその原因
モンゴル語仏典は、文語で記された、量としては最大の言語資料である。大蔵経の総
巻数は500 を超えているし、わが国の東洋文庫などの文書館、図書館所蔵のモンゴル語
文献の多くは仏典である。
ただし、そこで使用されている言語は、前節で瞥見した通り、きわめて特殊である。
仏典のほとんどは、基本的にはチベット本に依拠しており、作品の構成も個々の行文の
構成も、原則的にはチベット本と完全に平行している。それだけでなく、行文自体チベ
ット語を直訳したものに近く、モンゴル語として見ると不自然なものが多い。加えて、
使用されている仏教用語の多くは、ウイグル語などからの、日常的にはなじみの薄い借
用語である。そのため、正書法・語彙・語法など、世俗的なモンゴル文語とは大きく異
なっており、予備的な知識のないまま行文を読んでも、おそらくほとんど理解できまい。
ここには、モンゴル仏教と仏典翻訳の歴史が反映されている。
4.モンゴル仏教史および訳経史概観
モンゴルには13 世紀と16 世紀後半の2度、チベット仏教が伝来した。一方で、モン
ゴル人が文字を学んだウイグル人は早くから仏教に帰依していたから、最初に親しんだ
仏教は実はウイグル仏教であった。仏典において使用される術語の多くはがウイグル語
からの借用形式であるという事実はその証左である。
1260 年に即位したフビライはチベット仏教を国教としサキャ派の僧侶パクパを国師
に任じた。彼の治世下で開始されたと言われるチベット大蔵経の翻訳は、武宗ハイシャ
ン・ハーンの時代に完成したと伝えられるが、それには、チベット人、モンゴル人だけ
でなくウイグル人等も関わっていたという(6)(5)。この時期にはチベット仏教が威勢を誇っ
5
ていたため、現存するモンゴル語仏典も基本的にはほとんどがチベット本に依拠するも
のとなったのである。
製作年代が判明しているものの中で最古の仏典は、トゥルファンから出土した1307
年刊行の『入菩提行論』の注釈断片である。その奥書の内容から、1305 年にChos kyi 'od
zer が『入菩提行論』をモンゴル語訳したことが知られる。その他、同地出土資料は微細
な断片ばかりであるが、その中で、製作年代がこれと前後すると見なし得る仏典として
は『普賢行願讃』や『般若心経』の版本断片等がある。
元朝の崩壊後は訳経・出版も衰退する。1431 年の『聖救度仏母二十一種礼讃経』は、
数少ない例外であるが、これ以降開版の日付が明らかな仏典はしばらく姿を潜める。書
写や開版の日付が明記された仏典の登場は、第二次伝来にともなう1578-9 年の『金光明
経』写本である。オロン・スメから出土した大量の仏典写本の断片も、この時期のもの
であるが、そこには、先述の『入菩提行論』や『般若心経』の他にさらに『金剛般若経』
や『天地八陽神呪経』等が含まれる。ちなみに、先に述べた古典期モンゴル文語の開始
時期は、第二次伝来にともなう訳経・出版事業の盛行に符合したものにほかならない。
1650 年に開版されたチベット選述仏典Thar pa chen po の木版本は、北京木版本と総
称される一連の木版本の第一号である。その後、様々な仏典が次々と出版されるが、1718
年の清朝によるモンゴル大蔵経の経・疏部(カンジュール)の出版、1748 年の同じく論
部(タンジュール)の出版は、この時期の出版事業の頂点と位置づけられる。
5.「訳経」と「改訂」の実態
ただし、17 世紀以降の翻訳と称しても、実は、『宝網経』のように、それ以前に成立
し伝承されてきたと目されるテキストを改定したものであることが少なくない。そして、
その改定は決して大規模なものではなく、しかも、きわめて杜撰であった。
その好例として第118 頌をとりあげる(7)。
118(a)
A buyan tegüsügsen minggan köbegüd-tü bolǰu :
B buyan tegüsügsen minggan köbegüd-tü bolǰu :
C buyan tegüsügsen minggan köbegüd-tü bolǰu :
(b)
A bagatur küčün ǰirüke-tü činadus-un ayimag-i darugči :
B bagatur küčün ǰirüke-tü činadus-un ayimag-i darugči :
C bagatur küčün ǰirüke-tü činadus-un ayimag-i darugči :
(c)
A degedü sayin öngge lagsan-iyar čimegdegsen :
6
B degedü sayin öngge lagsan-iyar čimegdegsen :
C degedü sayin öngge lagsan-iyar čimegdegsen :
(d)
A yeke küčün aug-a-tu erkin qagan-dur adali ::
B yeke küčün aug-a-tu erkin qagan-dur adali ::
C yeke küčün aug-a-tu erkin qagan-dur adali ::
「(仏とは)福徳が円満した千人の息子をもち/勇猛者であり、力の中心、彼岸の眷
属をうちまかす者、/最勝の美麗な面貌を有し、/大威徳をそなえた最高の王に似
ている。」
Chin.
其福興盛 具足千子 勇猛英雄 遊歩無勝
面貌殊妙 相好飾姿 彼功徳勲 如天帝王
問題は第2 行である。仏の様子を説明するにあたって、漢訳にも対応形がある「勇猛
者」はさておき、残りの詩句「力の中心、彼岸の眷属に打ち勝つ者」は、意味が通じな
い。その上、漢訳とも大きく齟齬している。この個所は、チベット本では、dpa zhing rtul
phod pa rol tshogs ‘joms la である。これに照らせばようやく、ここではいくつかの誤訳
が錯綜していることが明らかとなる。
まず、dpa zhing「英雄でありながら」のzhing が、チベット文字表記でよく似ている
snying ‘heart’(Jäschke pp.197-8)と取り違えられている。さらに、語構成の解釈を誤
り、rtul phod pa ‘bold’(Jäschke p.213)の一部である助詞pa を複合形式pha rol ‘the
other side’(Jäschke p.338)の前分pha と見なしている。加えて、‘to amuse’(Jäschke
pp.536-7)と解すべきrol を、pha rol の後分と解釈している。
このように、誤読と異分析が作用し、原典にはないが仏教術語としてはよく知られた
Tib. pha rol「彼岸」が捏造されたと見てよい。そこにtshogs ‘joms la-この解釈は間違
っていない-を続ける。こうして、「彼岸の眷属に打ち勝つもの」という奇妙な形式が誕
生した可能性が大きい。
実は、『入菩提行論』や『普賢行願讃』といった有名で、人気を博した作品にはこの種
の誤訳はない。しかし、そのようなものはむしろ例外的であり、多くはこの『宝網経』
のように、原テキストの段階で相当程度の誤訳がある。しかも、その誤訳は近代の「改
訂」の際も多くは看過されているのである。第118 頌はその好例である。
しかしながら、この事実はモンゴル語仏典の有する価値を損ねるものでは、決してな
い。翻訳の拙劣さは、裏を返せば、当時のモンゴル人の異言語・異文化理解の実相を知
る材料ともなるし、また第一次伝来にともなう翻訳事業自体が多分に拙速であったこと
7
を推測させる材料ともなる。また、14 世紀に原典が成立したもので現存の大蔵経に収め
られているものの多くは、18 世紀の清朝による大蔵経出版に際して改訂されたことにな
っている。しかし、この例が端的に示すように、その改訂がまことに杜撰であることが
多いという事実も、同じような含意を潜めていると見なし得る。
6. おわりに
かつてHeissig は精細かつ浩瀚な書誌学的研究を通じて、現存のモンゴル大蔵経の成
立事情を解明し、清代の大蔵経刊行事業が実は決して新たな試みではなく、14 世紀以降
の訳業の集大成に他ならなかったことを明らかにした。上記の例が端的に示す通り、そ
れは実際の行文分析によって立証されている。そして大蔵経所収仏典以外においても、
同様であることも見出されているが、それでは、そのような拙劣なものも含めて、翻訳
作業さらには「改訂」作業の現場で、用語集がどのように活用されたのか、あるいは、
されなかったのか、本発表はそこに焦点を当てたいと考える。
本研究は、平成22 年度科学研究費補助金基盤研究(C)「仏典モンゴル語に見られる
言語接触を契機とする構造変化の研究」及び平成22 年度福武学術文化振興財団研究助成
「モンゴル大蔵経の本文批評を通じた比較文献史・文化史の諸問題解明」による研究成果
の一部である。
注
(1) Poppe 1954 pp.4-5 参照。
(2) Poppe 1955 pp.14-16 参照。
(3) A はストックホルムのスェーデン民族学博物館所蔵のSven Hedin 収集品中の写本、B
は1717 年の北京木版本、C は大蔵経所収である。詳しくは樋口1994、pp.12-15 を参
照。
(4) この詩頌については樋口1994、pp.330-331 を参照。
(5) 『宝網経』においては、このほか、先古典期文語特有の正書法<qi>、büsire-「信心す
る」、güre-「請う」、bili-「撫でる」、ǰilmagan「柔らかい」、sigun「声」、quvrag「僧
侶」など、中期語特有の形式が使用されている。このうち、<qi>はA において都合16
例確認できる。また、büsire-はA において1 例、güre-、ǰilmagan とsigun は3 者共
通で1 例、bili-はC で1 例使用されている。いずれも、中期モンゴル語文献の中でも
まれにしか例証されない。特に、güre-は『元朝秘史』と『普曜経』に各1 例、ǰilmagan
は『普曜経』と『牛首山授記経』に各1 例、sigun はBlo bzang bstan ‘jin のAltan Tobči
に1 例のみ、bili-は『元朝秘史』と『普曜経』に各2 例の用例を見いだし得るにすぎな
い。また、quvragはbilge bilig 同様ウイグル語からの借用形式であり、既に中期語の時
8
代から、よりモンゴル語語化したquvaragが好んで使われており、近代語の段階では後
者が完全に前者に取って代わる。事実、A ではbilge bilig が4 例、quvragが2 例使用さ
れているが、BC ではいずれもbelge bilig とquvaragに改められている。
(6) 金岡1980 の第4 章を参照。ただし、この時期のモンゴル仏教史に関しては依然とし
て不明な点も少なくない。
(7) この例を含め『宝網経』における「改定」の性格については樋口1994、pp.25-32 を参照。 无语了
都是日本话
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