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[清代] 現在藏在日本各種清代彩色圖 極珍貴滿洲史料

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发表于 2011-1-14 14:31:29 | 显示全部楼层 |阅读模式
唐土名勝圖會』

『唐土名勝圖會』(文化3年頃刊 1806年)は、木村兼葭堂作・岡田玉山編画による清国(中国)の紹介本です。清朝の宮殿や、その都の繁華な様子だけでなく、中国各地の河や山などの名勝・旧跡地も網羅しています。


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『清俗紀聞』

寛政11年(1799)刊の『清俗紀聞』は、長崎奉行の中川忠英(在任1795-1797)が、清国(福建・浙江・江蘇などの地方)から来た商人たちから風俗(年中行事、礼儀作法、車輿や服飾の制度、宮殿建築の法令、屋室や飲食、器財や玩具、日用人事など)を聞いて図説したもの。


『長崎聞見録』

『長崎聞見録』(寛政12(1800)年)は、寛政年間に長崎に2度来遊した廣川 ?[ひろかわ かい]による長崎の見聞録です。長崎の風俗のほかオランダ情報、珍獣怪魚奇魚介・他草木果実、あるいは什器などが分かりやすい挿絵で巧みに示されています。
  『北夷分界餘話』

 『北夷分界餘話』は間宮林蔵のカラフト地方探検の成果が収められた記録です。黒竜江下流域の探検成果である『東韃地方紀行』の前編としての性格を持っています。 村上貞助は文化7年『北蝦夷地部』に修正を加え、翌文化8年(1811)に浄書して幕府へ献上しました。国の重要文化財です。


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『東韃地方紀行』

『東韃地方紀行』は間宮林蔵の黒竜江下流域探検の成果が収められた記録です。カラフト探検の成果である『北夷分界餘話』の後編としての性格を持っています。 村上貞助は文化7年『東韃紀行』に修正を加え、翌文化8年(1811)に浄書して幕府へ献上しました。国の重要文化財です。


『辺要分界図考』

『辺要分界図考』は、文化元年(1804)、幕臣近藤重蔵によって書かれた北辺地理についての詳細な研究書です。近藤は日本および中国、朝鮮の文献や地図資料を調査し、漂流民の話、ロシア関係の写本類などを参考にして本書にまとめました。
 楼主| 发表于 2011-1-14 14:32:59 | 显示全部楼层
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 楼主| 发表于 2011-1-14 14:34:21 | 显示全部楼层
2# 1809年5月12日、林蔵は、樺太島の西岸「ナニヲー」まで北上、海峡の存在を確認しました。

今回は、間宮海峡を渡り、アムール川(黒竜江)下流域の探検の記録「東韃地方紀行」の展示パネルの見学です。間宮林蔵のコーナーにあった<「北夷分界余話」と「東韃地方紀行」>と題するパネルで、探検の日程表と、ルートが書かれた地図がありました。

日程表の赤い下線の行に、1809年旧暦7月2日・新暦8月12日、間宮海峡横断とあります。

次の赤い下線の行、1809年旧暦8月2日・新暦9月11日、黒竜江河口を通過とあり、大陸での探検期間は、約1ヶ月間だったようです。

■パネルにあった説明文です。
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間宮林蔵は、2度にわたって樺太を探検しました。
 第1回目は、1808年(文化5年)4月13日(新暦5月8日)に、松田伝十郎とともに宗谷を出発。シラヌシから東海岸を探査した後、西海岸のノテトで伝十郎と合流。間宮海峡の存在を目視して、閏[うるう]6月20日(新暦8月11日)にシラヌシから宗谷lこ戻りました。

 第2回目の出発は、宗谷帰着から20日ほど後の7月13日(新暦9月3日)。単身で渡樺[とかば]した林蔵は6人のアイヌを雇い、西海岸を北上。トンナイで一冬を過ごし海峡を確認した後、交易に向かう樺太アイヌの一行に同行して大陸のデレンに渡り、その年の晩秋に宗谷に戻りました。
 林蔵の足跡は、村上貞助によって、「北夷分界余話」「東韃地方紀行」としてまとめられ、1811年(文化8年)幕府に提出されました。
この2冊は、「樺太編」「大陸編」というべきもので、前者には、樺太の地名や地勢・民俗が、後者には、清国の仮府(一時的な役所)が置かれていたデレンを中心に、黒竜江(アムール川)下流での調査が報告されており、現在でも、北方アジアを知る貴重な資料となっています。
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 楼主| 发表于 2011-1-14 14:34:58 | 显示全部楼层
3# ajigeucun 大陸探検の最初にあったパネルですが、大陸から樺太に渡って来て交易をする「山丹人」と紹介されています。

山丹人7人が乗る小舟には荷物が見当たりませんが、少し深い船底に交易品が積まれてるのでしょうか。

かぶっている笠は、白樺の樹皮で作った「樺皮笠」と思われます。

樺太北部から対岸のアムール川河口付近に住む民族「ニブフ」(スメレンクル)がかぶる「樺皮笠」が挿絵と共に「北夷分界余話」に紹介されていました。

「山丹人」とはどんな民族なのでしょうか。

■この絵の説明文です。
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山丹人の舟
樺太の人々は、山丹人と日常的に交易している。しかし、彼らから交易に行くのではなく、山丹人が来て交易を行う。島の人々はシラヌシで交易した斧・小刀や自分で獲った獣皮を、山丹人の木綿・錦・玉・煙管・煙草・針などと交易する。(「北夷分界余話」巻之五交易)
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林蔵は、海峡を渡り、先ずアムール川(黒竜江)の河口から遡った「デレン」の交易場所へ行ったようです。(絵の下の地図に赤い丸印がある場所)

「東韃地方紀行 巻之中 満州仮府」に「満州仮府」の名で描かれている絵ですが、展示パネルには「デレンの仮府」とされています。

■パネルの説明文です。
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デレンの仮府
清(中国)が満州に設けた臨時の役所で、元々この土地に住んでいる人はいない。
西は朝鮮半島、東はロシア国境付近から集まってきた人たちがつくった何百という仮屋が、仮府の周りにある。彼らは持参した品物を交換するのに5、6日滞在して帰る。林蔵が行ったときも5~600人が集まっていた。(「東韃地方紀行」中巻)
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「北方記念館」で頂いた資料に掲載されていた「諸夷雑居」と書かれた絵です。

デレン仮府の周りに交易に来た人々が仮屋でくつろぐ風景です。

「北方記念館」の資料にはデレン仮府の交易場所に集まる周辺の民族「サンタン(山丹)」が紹介されていました。

■資料「サンタン」の説明文です。
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サンタン(ウリチ、オロチ「土地の住民」の意)
 ロシアの少数民族で、ハバロフスク地方のアムール川支流トゥムニナ川下流とその支流、およびフンガリ川、アムール川、キジ湖他に居住しました。
 江戸時代、日本では黒竜江[こくりゅうこう](アムール川)下流地方を「サンタン」とよぴ、そこに住む人々を「サンタン人」とよびました。漢字では山野、山里、山丹、三靼などと書きます。おもにその地方に住むウリチ(ウルチャ、オルチャともいう)をさしたようですが、同地方のニヴフも含めていうこともあります。
ニヴフは区別されてスメレンクルとよばれるのが通例でした。サンタン人のなかには、借財のかたにとられたり人身売買されたアイヌもいました。
 主な生業は狩猟(ジャコウジカ、ヘラジカ、クマ)で、沿岸部では漁業も行ないました。木彫りまたは板張りのポートで川へ出て漁を行ない、アザラシやトドを求めて間宮海峡やその湾へもでかけました。文化的にも熊送り儀礼や装飾など、アイヌ民族との共通点・類似点がおおく、シャーマニズムの影響が色濃く残ります。
 古くからアイヌ民族との交易に、装身用のガラス玉、ワシやタカの尾羽、中国の衣服、布地などをもって樺太のアイヌ集落まできて、キツネ、テン、アザラシなどの毛皮、日本の鍋やヤスリなどの鉄類をもち帰りました。これはサンタン交易とよばれ、衣服、布地などの交易品はアイヌから和人へと渡りました。しかし、この交易はアイヌに大きな借財を負わすことになり、文化年間(1804~1818)、幕府はアイヌの借財を整理し、幕府公認の交易に変えています。
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デレン仮府が造られているアムール川(黒竜江)河畔の景色です。

「東韃地方紀行」には「マンコー河」とあり、現地で同行した樺太アイヌの呼称だったのでしょうか。

河には帆柱のある船が停泊し、帆柱の先端には三つ又のヤリと、その下に鳥の形の飾りが付けられています。

デレン仮府は、冬には閉じられるようで、大勢の役人達はこの船で移動しているようです。

■パネルの説明文です。
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デレン仮府の北側河岸
仮府の前はマンコー河(黒竜江)で、背後は樹木がうっそうと生い茂る荒野。このあたりは広々とした大河だが、川の中に小島が2つあるので、波風が立つ心配もなく穏やかで、舟をとめておくには都合のいい場所である。(「東韃地方紀行」中巻)
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上の絵は、デレン仮府の建物で、二重の柵の中央に仮府役人のいる建物が見えます。

下の絵は、中央の建物の中で仮府の役人たちが交易に来た人々から進貢の品を受取り、賞賜の品を与える様子です。(ガラスケースに展示、影あり)

役人への「進貢の儀」は、笠をぬぎ、地上にひぎまづき、三回頭を下げた後、毛皮一枚(筒抜状の黒テンの皮皮)を差し出す場面が描かれているようです。

この儀式で仮府での交易を許されたものと思われます。

■パネルの説明文です。
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仮府の全景
26~27m四方に、丸太[まるた]で2重の柵を作る。柵内の右左と後方の三方に交易所を作り、中央に柵を回して仮府としている。中央の仮府で貢物を受け取り、褒美の品物を渡す。出入り口はそれぞれの柵に1か所あるが、丸太に穴を開け横木を通しただけの粗末なもので、長さもまちまち。カンナをかけたあともなく、大工が作ったものとは思えなかった。(「東韃地方紀行」中巻)
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上の絵は、外側の柵と、内側の柵の間で数百人が交易をする様子です。

この狭い施設で、数百人が交易する様は、盗みあり、ケンカありで、収集がつかない状況だったようです。

下の絵は、交易の交渉場面で、着ていた服を脱いで毛皮と交換を求めている場面のようです。

■上の絵の説明文です。
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デレン仮府内の騒がしい交易
仮府内の騒がしさはたとえよえがない。「毛皮が盗られた」とさわぐ者や、「抱えていた毛皮を切り取られた」とさけぶ者。値段が合わないと衣服を脱いでまで交渉するが毛皮を入手できない役人、けんかをして殴りあう者、走って転ぶ者もいれば、布地を手に入れて帰る者、木綿を返して酒をくれとさけぶ者、鐘を叩いて騒ぎを静めようとする役人、「役所の物が盗まれた」とドラが鳴り、門を閉められると柵をよじ登って屋根に上がる者など、どうなっているのか分からなかった。(「東韃地方紀行」中巻)
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■下の絵の説明文です。
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交易の様子
脇にかかえた獣皮を酒・煙草・布地・鉄器などと交換する。交易が終わっても、毛皮の残りがあると少しでも高く売ろうとしてなかなか交換に応じない。満州人は何とか毛皮を手に入れようと、さまざまな物を出すが、それでも交換に応じないときには自分の着ている衣服まで脱いで交換しようとする。(「東韃地方紀行」中巻)
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 楼主| 发表于 2011-1-14 14:35:24 | 显示全部楼层
上の絵は、「廬船」の文字があり、役人が住居とした船です。

又、左手には「檣頭」[しょうとう]の文字があり、帆柱の先端の飾りが描かれています。

鳥の飾りの上にヤリのようなものが二本と、三本の二種類描かれており、乗船する役人のランク表示だったのでしょうか。

下の絵は、林蔵が上級役人の船を訪ね、歓待された場面です。

座敷でりは役人達が虎の毛皮に座り、右手奥の林蔵が座っているのは熊の毛皮でしょうか。

船内で見た筆・硯・墨・紙や、食器類は、毎年清から長崎にくる物と同様だったとしています。

林蔵の観察は、実に細部に渡り、絵と、文章で表現されています。
 楼主| 发表于 2011-1-14 14:35:44 | 显示全部楼层
上の絵の説明文です。
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上級役人の船
上級役人が宿泊する船は、幅約3m、長さ約13~14m、積荷は約百石。造りは粗末で舳先[へさき]には波を切るミヨシがなく、両側より板を並べただけで、継ぎ目には白土を塗りこんである。船の3分の2は荷物を積む場所でムシロがかけてあり、残りの部分に小屋を建てて居住区域としている。船尾は白樺の樹皮で屋根をつくった台所。(「東韃地方紀行」中巻)
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■下の絵の説明文です。
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船中での仮府役人との会談
仮府に滞在する上級役人の船を訪ねると、彼らは大変喜んでアルカという焼酎のような酒をすすめ、酒の肴に豚肉・鶏肉・卵・川魚や野菜などを出してくれた。他に、そうめんのようなものをたべさせてくれたが、日本では食べたことのないものだった。(「東韃地方紀行」中巻
 楼主| 发表于 2011-1-14 14:36:04 | 显示全部楼层
の絵の説明文です。
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上級役人の船
上級役人が宿泊する船は、幅約3m、長さ約13~14m、積荷は約百石。造りは粗末で舳先[へさき]には波を切るミヨシがなく、両側より板を並べただけで、継ぎ目には白土を塗りこんである。船の3分の2は荷物を積む場所でムシロがかけてあり、残りの部分に小屋を建てて居住区域としている。船尾は白樺の樹皮で屋根をつくった台所。(「東韃地方紀行」中巻)
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■下の絵の説明文です。
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船中での仮府役人との会談
仮府に滞在する上級役人の船を訪ねると、彼らは大変喜んでアルカという焼酎のような酒をすすめ、酒の肴に豚肉・鶏肉・卵・川魚や野菜などを出してくれた。他に、そうめんのようなものをたべさせてくれたが、日本では食べたことのないものだった。(「東韃地方紀行」中巻)
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右の絵は上段の絵から間宮林蔵を部分拡大したもので、左手の写真は「北方記念館」のパンフレットにある間宮林蔵です。

役人の船で食事をする林蔵は、無精ひげを生やし、刀も差さず、みすぼらしい浪人のような姿です。

宗谷岬に立っていた旅姿の銅像や、北方記念館のこの銅像などで、さっそうとした武士のイメージを描いていましたがもろくも崩れてしまいました。

鎖国時代、隠密で外国を調査する実態は、なりふり構わず、命がけで情報を収集する厳しい仕事だったものと思われます。



アムール川河口近くの風景が描かれ「サンタンゴエ地図」の題名で、展示されていました。

右手の丘の上の石碑、左手の山、中洲の家などには名称も付けられています。

林蔵達は、交易場所のデレンからアムール川を河口近くまで下って行ったようです。

ロシアと、清は、このアムール川(黒竜江)周辺で国境紛争を続けていた歴史があり、下の説明文のロシア山賊の話もその歴史の一こまだったのでしょうか。

明治維新から約60年前の林蔵の探検記録は、村上貞助によって「北夷分界余話」「東韃地方紀行」にまとめられ、幕府に報告されました。

幕末、北方の地は、早くから脅威を受け、林蔵は、その前線で命がけの探検を行い、その後の北方領土に大きな影響を与えたものと思われます。

北方領土問題の解決に手をこまねいている現代の私たちは、もっと歴史を知り、林蔵に学ぶことも多くあるような気がしてきました。

■絵の説明文です。
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サンタンゴエ
1809年(文化6年)7月26日(新暦9月5日)に通過。昔ロシアの山賊がホンコー河を下って来て住み着いたという。山賊たちは、ここの人たちから生産物を奪い、土地を支配しようとして満州族と戦ったが、敗れてロシアに逃げ帰ったそうだ。河岸の高いところに2基の石碑があったが、遠く船中から見ただけなので文字までは分からなかった。(「東韃地方紀行」下巻
 楼主| 发表于 2011-1-14 14:36:43 | 显示全部楼层
間宮林蔵の探検は、樺太島の他、対岸のアムール川下流域まで及んでいます。

樺太は「北夷分界余話」、大陸側は「東韃地方紀行」にまとめられ、幕府に報告されたようです。

この探検記録の2冊の作成は、間宮林蔵・述、村上貞助・編とされており、挿絵や文書は村上貞助のものと思われます。

今回は樺太の記録がまとめられた「北夷分界余話」の展示は、林蔵の旅を少し実感できた見学でした。



「北方記念館」を入ると間宮林蔵の実物大の像があり、林蔵の生きた時代の大きな年表が展示されていました。

■「北方記念館」のパンフレットにあった間宮林蔵の樺太探検の説明文です。
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 間宮林蔵が地図測量の師である伊能忠敬と函館近郊で出合い、その進歩した知識・技術に傾倒し、親しく教えを受けたのは寛政12年(1800年)のこと、忠敬55歳、林蔵21歳でした。
 この時代、日本に通商を求めるロシアの軍船が威圧的行動を繰り返して蝦夷地周辺を騒がせていました。
 間宮林蔵の樺太から大陸に及ぶ探検はここに始まります。
 文化5年(1808年)4月13日(新暦5月8日)宗谷から上司、松田伝十郎と共に奥蝦夷地(樺太)の自主(シラヌシ)を目指して出発しました。
 自主に着いた2人は相談し、林蔵は東海岸、伝十郎は西海岸を調べ、進むことができなくなれば、後を追い合流することを決めて出発します。東海岸へ進んだ林蔵はオホーツク海の荒波に阻まれ、伝十郎を追い西海岸へと向いますが、林蔵と伝十郎は遠く大陸を見て帰ります。
 宗谷に帰った林蔵は、その秋、再び樺太に渡り越冬します。林蔵は春が来るのも待たず、翌年の文化6年(1809年)正月には出発し、樺太北端のナニオーまで進みました。その結果、樺太は海峡で大陸と隔てられた島であることを確認します。さらに、樺太の人々と共に大陸に渡り清国の役人と会談し、ロシアや清国の動き、周辺の地理情報を得て帰ります。
 200年がたった今も、私たちは間宮林蔵の著作から学ぶことが多いです。
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間宮林蔵が探検した樺太島と、対岸の大陸の地図です。

向って右の地図には第1回目の探検ルートを赤い線、第2回目を青い線で描かれています。

左手の地図は地名と、その地域に住む北方民族の名が書かれています。

この展示で、間宮林蔵が大陸まで探検したことを初めて知り、驚きました。

又、林蔵が幕府の隠密だったようで、鎖国の中でロシアの活動が顕著になった時代、命令に従った北方の諜報活動だったことがうかがえます。



「北夷分界余話」に「トッショカウッシリ図」とある挿絵で、写真下の地図に赤丸印の場所です。

間宮林蔵が探検した場所の景色の絵が展示されているコーナーの最初にあったものです。

■挿絵の説明文です。
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トッショカウッシリ
樺太東海岸にある山で、別名を「ホロノホリ」(大山)という。
麓より山頂まで、岩石が続き登ることはできない。西海岸の「キトウシノホリ」(ギョウジャニンニクの群生する山)とこの山だけが樺太の名山である。(「北夷分界余話」巻1)
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■展示コーナーの案内文です。
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その先にあるものを求めて
林蔵の歩いた道宗谷から 樺太・シラヌイ(白主)、間宮海峡を経て大陸デレン、黒竜江下流へ「北夷分界余話[ほくいぶんかいよわ]」「東韃地方紀行[とうだつちほうきこう]」に描かれた林蔵の踏査記録をパネルで紹介します。
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■原典となった「北夷分界余話」の紹介パネルの説明文です。
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「北夷分界余話」(複製)間宮林蔵・述、村上貞助・編
全9巻と附録1巻からなる間宮林蔵の樺太探検の記録で、1810年(文化7年)に初稿が完成、翌年、浄書されて幕府に献上されました。
第1巻:北蝦夷地 島名
第2巻:地勢 産物
第3巻:南方初島 居家 器機
第4巻:便犬
帯5巻:漁猟 交易
第6巻:鍛冶 冠婚葬祭
第7巻:ヲロッコ夷
第8巻:スメレンクル夷上
第9巻:スメレンクル夷下
附 録:ハラタ・カーシンタ満洲入貢 大尾
(つくばみらい市・間宮林蔵記念館蔵。原本:国立公文書館蔵)
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以下、樺太島三ヶ所の絵は、「北夷分界余話 巻之二 地勢」の中に掲載されています。



間宮海峡の最も狭い場所の景色と思われます。

■挿絵の説明文です。
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ワゲー
ラッカから6里(24Km)ほどのところで、大陸「ヲッタカバーハ」に渡る場所。距離は1里(4Km)ほどで、海上はおだやかだが、海峡の中ほどに早い潮流があり、風向きによっては逆さ波で舟が転覆する事もある。(「北夷分界余話」巻1)
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間宮林蔵が、2回目の探検で行った樺太最北の踏査地点「ナニヲー」のようです。

海峡を北に抜けたこの辺りから海が広がっているのを確認し、樺太が島であることが分かったようです。

■挿絵の説明文です。
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ナニヲー
西海岸の最北の踏査地点。ここからは大陸の「ラガタ」に渡る。海路はおよそ8里(32Km)、北海の激しい波が入りこんで、海峡の潮流は急流となり、大波が襲い、渡海は困難を極める、とニブフの人々が話している。(「北夷分界余話」巻1)
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館内を進むと「間宮林蔵の見た樺太」と書かれたコーナーがあり、樺太の挿絵27点が展示されていました。

この二つの絵は「男夷」「女夷」のタイトルが付けられ、原本の「北夷分界余話」には樺太アイヌの身だしなみが紹介されていました。

■「北夷分界余話 巻之三 南方初島人物」の挿絵の説明文です。(平凡社発行「東韃地方紀行他」より)
********************************************************************************** 男夷
此島の人物南方凡百五、六十里の間は大抵 蝦夷島(北海道)に異なる事なしといへども、其眉毛連続せざる者も有りて髭も亦薄きに似たり。
頭髪の剃去せる処多く、其垂髪の状も亦蝦夷島に比しては長しとす。其他耳飾の環の如きは蝦夷島に異なる事なし。

女夷
女夷の文身、蝦夷島(北海道)のごとく濃点する者なくして甚薄し。漸々奥地に至るにしたがつて文身せざる者多し。其垂髪の状 蝦夷島より長黠して肩をおゝふ。共容貌蝦夷島に比しては艶色の者多し。
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上の絵の男性の額が広く、ハゲているようにも見えますが、髪を剃る慣習があったとは、驚きです。

女性の文身(入墨)も北海道アイヌより薄いものの、慣習はあったようです。

魏志倭人伝の「鯨面分身」や、沖縄の「ハジチ」を連想します。



樺太アイヌの住居「穴居」の絵が展示されていました。
 楼主| 发表于 2011-1-14 14:37:20 | 显示全部楼层
樺太アイヌの住居「穴居」の絵が展示されていました。

北海道アイヌと同じものと紹介され、冬専用の住居とされています。

竪穴住居のようで、1~1.2mの深さに掘り、ハシゴで出入していたようです。

本には室内の挿絵があり、ハシゴや、かまどが描かれていました。

■「北夷分界余話 巻之三 居家」の説明文です。(平凡社発行「東韃地方紀行他」より)
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穴居
此島南方五、六十里の地は居家の造法総て蝦夷島に異なる事なし。奥地に至ては異俗スメレンクルの居家に類する者ありといへども、十にして一、二ある而己[のみ]。
此島の夷、冬月に至て穴居する者あり。然も其地の寒暖によつて是をなす事にして、島夷すべて是をなすにあらず。其穴居する者も実に寒威堪がたく、やむ事を得ずして是をなすなり。故に九、十月の比[ころ]既に積雪の時に至て是を造り其内に入り、春二、三月の頃積雪いまだ解[とけ]ざる前に穴を出て生平の家に居す。如レ期[かくのごとく]せざる時は其身疾病をうくと云。   
穴居を製するの法、先[まづ]山に添ふて地をえらみ、土を掘る事凡三、四尺許[ばかり]、其内に図のごとく柱を建て、屋を覆ふに雑草を以てし、其上に重ぬるに穴中を穿[うがち]たる土を以てす。戸口の上に庇[ひさし]をて、内に入る処に階子をかけ、其の側竃[かまど]を造り、り、竃中より穴を穿て家外の廡下[のきした]に掘りぬき、炊烟の屋中に鎖[とざ]すを忌[いみ]て、此穴より家外に出し去しむ。
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「男夷ヲロッコ・女夷ヲロッコ」と紹介された民族の絵です。

「ヲロッコ」は、上段の地図、カラフトの中部に「ウイルタ」と記された民族の別名で、同行した北海道アイヌが呼んでいた民族名のようです。

「ヲロッコ」は、アイヌと比べて毛深くないようで、頭髪を剃る慣習もなかったようです。

絵にはトナカイが描かれ、衣服も毛皮が中心のようです。

定住せず、一定のエリアの中で仮屋を造って移動して生活していたとあり、トナカイ等の牧畜をしていたのでしょうか。

冬の家屋は、「ヘボ」と呼ぶ樺木皮と、魚皮で作ったシート状のもので建物を覆っていたようで、本にはその二種類のシートの挿絵がありました。

■「北夷分界余話 巻之七 ヲロッコ夷」の説明文です。(平凡社発行「東韃地方紀行他」より)
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男夷ヲロッコ・女夷ヲロッコ
一、東海岸シー(敷香、北緯四九度一二分)・タライカ(多来加、北緯四九度一八分。シーとともにタライカ湾奥)より奥地にヲロッコと称する異俗の夷あり。其人物大に蝦夷島に殊にして、眉毛連続せる者なく、其鬚髪[ひげかみ]また少しく赤色を帯び、且つ髭[ひげ]なき者多し。其言語も亦ひとしからず。且其理髪総て剃刀[かみそり]の事なく、男夷は一組にして背に垂れ、或は図のごとく束ねて頸垂る(其情態・俗習は、唯に一時の応接する処、詳なる事をしらずといへども、其顔色・容貌下品にして、暴戻無暫[ぼうれいむざん]を表せりと云。
一、女夷亦髪を乱垂せず、大抵両耳の後に束ね或は図の如く分組て背に垂れ、又は男夷のごとく頸上に束ねたる者ありて共状一ならず。其容貌・顔色、蝦夷島に比しては美艶にして且人に媚[こび]るの妖態[えうたい]多く、浴湯・施粉の事はなす事なしといへども、日々其面を水濯し其頭を梳[くしけづ]りて粧飾をなす者多し。
一、耳飾の環[くわん]亦南方と異にして、男夷は小環をつけ、女夷は大環にして図の如く数環をかけ玉を飾る。
且其酋長[しうちやう]たる者は男女とも鼻また小環をつくる事、図の如し。
一、衣服大抵水豹皮・魚皮其他、何によらず獣皮を以て是を製す。木綿衣のごときは皆山且夷と交易する処の物にして、布帛の類たへて自製する所の者なし。        
一、此夷も亦獣魚皮を以て製したる脚絆[きやはん]の類を着る事南方の如し。
一、男夷被服の下、襣子の上、白布を以て製せる揮垂の如き者を著し、其端貝歯をつけて飾となす事、図の如し。其被服の状南方と大に異にして、衣服の長[たけ]殊に短く稍腰を下るのみにして、襣子・脚絆を著たるさま実に競々として其業をなす者と知るべし。
一、女夷は肌膚を出す事を恥とすれば、其衣長くして踵[くびす]に及び、内猶襣子・脚絆を著[つ]け裳末飾銅をつくる事図の如し。

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 楼主| 发表于 2011-1-14 14:38:56 | 显示全部楼层
9# ajigeucun

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发表于 2011-2-9 02:07:41 | 显示全部楼层
有时候国外的东西更能说明一些事情~
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